“粋”の歴史、浅草のまち

仁丹塔

■昭和29年■平成9年
 昭和7年、森下仁丹が東京進出の際、東京で一番人出の多い浅草に広告塔を建てましたが、19年に解体。戦後29年に再建の時、浅草に馴染みの凌雲閣十二階を模して建て、浅草の名物となりましたが、昭和61年6月解体されました。



吾妻橋

■昭和3年■平成9年
 江戸の中期までは、ここに橋はなく「竹町の渡し」と呼ばれる渡し場でしたが、民間からの願いで、町人の費用だけで初めて橋が架けられました。幕府は「大川橋」と名づけましたが、町人は「宮戸川橋」を主張、受け入れられぬと知ると、通称「東橋」と読んだと言います。自分達が架けた橋の誇りがそうさせたのでしょう。


浅草のまち今昔
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