“粋”の歴史、浅草のまち

浅草公園六区

■大正元年頃■平成9年
 ひょうたん池より、十二階、六区映画街、浅草国技館を望む(大正元年)。明治7年に浅草寺境内が「浅草公園」となり、17年に行政区画上一区から六区に分けられました。後の「公園六区」の名称はこれに由来します。人造の大池、俗称「ひょうたん池」と、その土で田圃を埋め立ててできた「六区映画街」、「十二階」は、当時大阪凌雲閣の9階を凌ぐものとして明治23年に完成、10階までが煉瓦建て、その上は木造の建物でした。

※現在の風景は花やしき観覧車より旧ひょうたん池(南南西)方面を一望したもので、右の大きなビルがJRA(中央競馬会馬券売場)です。


六区興行街

■大正2年■平成9年
 六区は浅草寺が公園に指定された際に7つに分けられた区画の一つで、1区は浅草寺境内、2区は仲見世、3区は浅草寺本坊伝法院、5区は花やしきから本堂にかけての通称奥山、6区は現在の六区ブロードウェイの 両側の興行街、7区は浅草馬道付近(その後公園地から除外される)が含まれました。現在は六区ブロードウェイと名を変えてたくさんのお客様で賑わっております。


浅草のまち今昔
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