四季折々の浅草。みなさんお揃いでどうぞ
*新型コロナウィルス感染症の状況により変更等の可能性があります

◆9月20日,10月19日,
  11月7日
お茶湯日
◆10月18日 菊供養
◆10月18日 金龍の舞
◆11月3日 東京時代まつり
* 平成26年度からは開催を休止しております
◆11月3日 白鷺の舞
◆11月5日,17日,29日 酉の市(酉の日)
* 令和6年は三の酉まであります


お茶湯日(功徳日) <9月20日,10月19日,11月7日>
 仏様には色々なご縁日があり、観音様のご縁日は十八日、地蔵様のご縁日は二十四日とか、古くから云われておりますが、室町末期以降この他に功徳日が設けられ、この功徳日にお詣りすると百日に向かうとか、千日に向かうとか、同じ功徳にあずかると云われ、いわば特別デーとして広められてきました。
 功徳日のことを「お茶湯日」とも云って、信徒が、観音の宝前に献茶されたお下がりを頂いて喫む風習が古来からありました。実は毎日献茶しているのですが、功徳日に限って特に信徒へ授与され、これを講員組織にして出来たのが「お茶湯講」で、現在では「月参講」と称して講員は5000人以上にも及んでいます。
 浅草寺でこの「お茶湯講」が組織されたのは、天保時代からで、当時の世話人発行のチラシも現存しております。


菊供養 <10月18日 金龍山浅草寺ご縁日>
 信徒の持参した献菊と、既に献菊された下供菊(げくうぎく)とを交換して、更に随時菊供養の加持法楽の観音経音誦のもとに終日営まれるもので、供華会(くうげえ)とも称し、明治30年10月11日(旧暦の9月9日に当たる)に創始されたもので発願者は当山貫主奥田貫昭大僧正でありました。謡曲「菊慈童」の故事は観音経の威神力を伝えようとする架空的物語でありますが謡曲「菊慈童」にあるように「此の妙文を(観音経八句の偈の中四句)菊の葉に、置く滴り(したたり)や露の身の、不労不死の薬となって、900歳を送りぬを、汲む人も汲まざるも、延ぶるや千年(ちせ)なるらん」とあるように、菊の葉に観音経の四句の偈を記し、水に浮かべて飲むだけで800余年の寿を保ち、なお少年の如き容貌であったという故事から「重陽の宴」とか我国に伝わっては「菊の被綿(きせわた)」というめでたい行事も生まれております。この菊の出廻る10月18日の観音薩捶のご縁日を期して「菊供養」の定日としたのは昭和年以来の事でありす。


金龍の舞 <10月18日 金龍山浅草寺ご縁日>
 浅草寺の山号を金龍山と言う縁起は「18日寺辺に一夜にして松千株ほど生ず、3日を過ぎて天より長さ百尺ばかりの金鱗の龍、松のなかにくだりしが、その後あるところをず、これによって金龍山と言う」ところから出ています。金龍の舞は、この由来によるもので、昭和33年10月昭和本堂が落慶した際、浅草観音慶賛会が後生に永く伝える記念行事として創始奉納したものです。金龍の舞の奉演は10月18日の菊供養と3月18日のご本尊示現会の佳日に行われています。金龍の舞は故久保田万太郎先生の指導の下に演出吉川義雄、作曲町田嘉章、舞の振付藤間友章の諸先生が担当され、地元の各町青年部有志70余名が斎戒、精魂を傾けて奉演します。既に著名な行事となっています。


東京時代まつり <11月3日 文化の日>
* 平成26年度からは開催を休止しております
 東京は太田道灌の江戸城構築から約540年、徳川家康の江戸入府以来約400年の歳月を数えますが浅草はそれより古く1367年の昔、西暦628年に隅田川から示現した観音様がこの地に祀られてから、浅草寺を中心とする独自の地域社会を形成し、特に江戸時代に入ってからは、江戸の庶民文化の中心として栄えて参りました。今でも浅草は江戸の名残を最も色濃く宿す町として、多くの人々に愛されており、東京の代表的下町として、全世界の人々の人気を博しておりますが、平成元年11月3日、21世紀に向かう世界都市・東京の中にあって東京の歴史と文化の原点は浅草である、との事実を鮮明にする事により浅草の存在と独自性を樹立するため、「東京ルネッサンス」に呼応し、永年の念願であった江戸・東京の歴史絵巻を「東京時代まつり」と銘打ちこの浅草の地においてはじめて挙行したものであります。


白鷺の舞 <11月3日 文化の日
 白鷺の舞は慶安5年(1652年)の「浅草寺慶安縁起絵巻」の祭礼行列の中にある「鷺舞」の姿を浅草観光連盟が昭和43年に東京百年の記念行事として復興したものです。鷺舞の神事は京都・八坂神社の祇園祭りが起源で千百年以上の昔から悪疫退散の為に奉納伝承され、非常に盛んであったと云われますが、いつしか中絶し、やがて慶安2年(1369年)に大内引世が京都から山口に八坂神社を勧請建立するにあたり山口の祇園祭りの神事として登場させ、更に天文11年(1542年)島根県津和野の城主吉見正頼が山口から移し今日では全国的に有名ですが、浅草寺の「白鷺の舞」は京都の正統を基本に慶安縁起の遷座供養祭礼行列を復元したもので、平安時代の風俗を眼のあたりに見ることが出来ます。

  

酉の市 <11月5日,17日,29日(酉の日)>
* 令和6年は三の酉まであります
●鷲神社の由来
 所在 台東区千束3-18-7
 祭神 天日鷲神  日本武尊

 日本神話によると、天照大神が天の岩戸にかくれ、国中が闇となった時、天照を岩戸から誘い出すべく、天宇受命が舞をまい、天手力男命が力にまかせ岩戸を開けましが、天日鷲命はこの天手力男命の息子で、この時、弦という楽器を司っていました。 その弦の先に鷲が止まったので、世の中を明るくする瑞象を現す鳥だと大変に喜ばれ、その後、天日鷲命は、開運、殖産の神様として全国に祀られ、この浅草にも祭祀される様になりました。下って日本武尊が東国遠征に当たり、戦勝を祈願し、凱旋してから社前に熊手をかけて戦勝を祝い、お礼参りをしましたが、その日が11月の酉の日であった事から、鷲神社の祭日とされる様になったと云われます。
 鷲神社は江戸時代には鷲大明神社と呼ばれ、隣の長国寺と神仏混淆で、長国寺の住職が別当を兼ねておりましたが、明治に入り神仏分離され、鷲神社と改称されて、境内地も別々に定まりました。

● 酉の市・おとり様
 「おとりさま」とはこの鷲神社の愛称であり、その例祭は昔は酉待、酉祭といわれ、祭りの日を意味しておりましたが、葛西花又の大鳥神社の酉の市の如く、祭りに付随して市がたつ様になり、次第に賑わいを呈してからは、酉の市とか、また市自体も「おとりさま」と愛称をもっていわれる様になりました。
 その賑わいは江戸中期より始まったらしく、東都歳時記(天保9年刊)に下谷田甫鷲大明神は天保3年(1832)よりおよそ60年余り前から賑わったと記されておりますので、江戸中期の宝暦、天保(1750〜1760)頃には相当有名だった様であります。俳人其角の句にも「浅草田甫、酉の市」として「春をまつことのはじめや酉の市」の句があります。

● 熊手
 鷲神社は昔から開運、商売繁盛の神として尊崇され、神社の熊手御守は「かっこめ」と呼ばれ、「かっこむ」、「とりこむ」などの縁起から江戸町民の人気をあつめ、それにつれ例祭当日、神社周辺には大小様々の縁起ものの熊手を商う業者が出店し、熊手も大きく美麗になって、現在200余店が出店しています。この神社の裏手には日本最大の歓楽境“吉原”があったので、吉原華やかなりし頃の「おとりさま」は正に東京随一の人手を見る大市でありました。11月の第一番目の酉の日を一の酉、第二番目 の酉の日を二の酉と呼び、年により三の酉まで市の立つ年がありました。江戸市民は「おとりさま」に詣でる事により、冬の訪れを感じ、冬支度を急ぐのでした。
 また、市の日売られる八つ頭の芋は「頭になる」「子が殖える」などの縁起から、あわもち、切山椒なども夫々縁起をかつぎ、昔から販売され愛用されています。

資料提供:浅草観光連盟


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